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2005/04/15

『ピアノ・レッスン』"The Piano"

 映像が心を沸き立たせる映画だ。波打ち際に置き去りにされたピアノ。高い丘から見下ろす浜辺。浜辺で遊ぶ幼い少女フローラ。浜辺に貝で描かれた砂絵と3人の足跡を見た時は心が躍った。

 2人の男は、それぞれに魅力的だ。字も読めないベインズだが、マオリ族の言葉がわかるのと同様の心で、言葉を発しないエイダのピアノの音を感じることができる。粗野なようでいて繊細な心を併せ持つ男だ。一方の夫は、妻の心の機微が全くわからない男だが、不細工に不器用に悩み抜き、もがいていく中で、妻の心の叫びのことばを理解し、解決する。全然格好良くないが実のある男だ。

 しかし、私はこの映画は嫌いだ。最初、まるでどちらが保護者なのかわからないような母親に対する娘フローラの役割が気になったのだが、細かいことを言っていては映画が楽しめないので、片目をつむって見ることにした。しかし、2人の情事を覗かせ、トラウマになりそうな血なまぐさい出来事の引き金を引かせるに至っては、目も耳もふさぎたくなった。これは虐待以外の何物でもない。こんな大問題をただの狂言回しのような形で使い、小道具のように筋の中で扱ってはいけない。

 このことがあるから、いくらエイダ役が美しくても、上手に演技しても、私には彼女を理解しようという気持ちが全くわいてこなかった。

[他には、こんな「ピアノもの」があります]
  『戦場のピアニスト
  『海の上のピアニスト
  『シャイン

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1993年
監督:ジェーン・カンピオン
エイダ/ホリー・ハンター
ベインズ/ハーヴェイ・カイテル(「ルル・オン・ザ・ブリッジ」「バグジー」「タクシー・ドライバー」)
スチュワート(夫)/サム・ニール(「ジェラシック・パーク」)
フローラ/アンナ・パキン(「小説家を見つけたら」)

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コメント

こんにちは。

私もこの映画を観て何か釈然としない思いが残りました。
ハーヴェイ・カイテルもサム・ニールもそれぞれ複雑な男の心情を上手く演じているのに・・・。

でもちんとんさんのレビューを読んで納得。
エイダとフローラの関係が私も気になっていたんです。
エイダは自分のことばかり考えているようで、フローラの気持ちを考えていない・・・そんな印象が残りました。
ラストまで観ても、拍手する気が起こらなかったのはこのせいなのでしょうね。
エイダには「女」であるより前に「母親」であって欲しかった。

実はこれとまったく逆の感想を『誰も知らない』で書きました。
自分でも矛盾してるなーと思いますが、エイダのように中途半端な立ち位置にいるよりは潔かったからでしょうか。
うーん、考えさせられます。

「○○モノ」、どんどん増えていってますね。(笑)

プロフの写真も変わりましたね。今度のテーマは何ですか?

投稿: つっきー | 2005/04/16 04:08

つっきーさん、コメントありがとうございます。

あれは、お花見に行くので、わくわくして車の外を覗いているちんとん(あのぬいぐるみの名前)です。

今、時間がないので、写真のほうのコメントだけで失礼します。主テーマのほうはまたゆっくり書きますね。

投稿: ちんとん@ホームビデオシアター | 2005/04/16 06:49

お花見にわくわくしているちんとんくん(orちゃん)ですかぁ。
可愛くって、抱きしめたくなりますねぇ。
うちにもたろすけというコとじろすけというコ(共にぬいぐるみ)がいます。
今度、プロフの写真にしてみようかなぁ・・・。

投稿: つっきー | 2005/04/16 17:21

つっきーさん、こんにちは。

旅行から戻ってきて、書いています。

『誰も知らない』を読ませていただきました。まだ見ていない映画ですが、「母親」が「女」であることを選ぶという気持ちを肯定したいという気持ちわかりました。

私は、映画の中で、それを肯定して描いても否定して描いても良いと思っているのですが、この「ピアノ・レッスン」では、子どもが心に大きな傷を負いかねないできごとについて、あまりにも無頓着に描かれていることにあきれました。この映画では肯定も否定もしていません。問題にさえなっていないのです。ただ、筋の展開上、手話を読み取る子どもの役が必要で、子どもがいたほうが話しがスムーズに進むから設定したという程度の意味で使われているのです。そこが許せないと思いました。

夫がベインズに向かって「2人で行って良い」という場面がありますが、私は「え?フローラはどうなるの」と思ってしまいました。実際には「3人で…」の行動になりますが、言葉のほうは巻き戻して英語を確認しても、やはり「2人」。映画を作る側はエイダを人数にも入れていないことがこの場面にもはっきりとあらわれていました。

その部分への葛藤がちゃんと描かれていたのであれば、エイダの気持ちに沿って映画を見ていくことも可能で、その上で、語ろうとした気持ちも受け取ることができたと思うのです。

投稿: ちんとん | 2005/04/17 22:13

ちんとんさん、こんばんは!Art Greyの岡枝です。実は、本日『ピアノ・レッスン』について極私的なログを書きまして、それからこちらのログを拝読させて頂きました。

‘しかし、私はこの映画は嫌いだ。’

↑何かちょっと残念ですが…人様それぞれの感じられ方がありますものね。私はエイダは立派にフローラのお母様でいらしたと思っています。と申しますか、彼女自身当初はそれ以外の何者にもなりますお気持は無かったと思うのです。

ただ、お二人の殿方がそれを放って置かなかった…ような気がします。

フローラの扱いについては、確かに少々ずさんな気も致しますが、私はこの作品の舞台となっております19世紀では、お子様はこの程度の地位しかなかったのだろうなぁ、と別段不自然には思いませんでした。当時の絵本などを見ますと、お子様に紐を括りつけて、犬のように行動範囲を制限されながら家事に勤しまれるお母様の御様子等もありますし。

逆にそのような‘人数に含まれません’ような立場に於いて、フローラはフローラで彼女なりに想像力を働かせて、御自身やお母様の身の上を好き勝手に理解していたのではないかしら?フローラが語ったエイダの過去の悲恋物語は全くの出鱈目だと思いますが、或いはエイダのピアノの旋律から、フローラはそうした夢物語のような‘真実’を感じ取っていたのかも知れません。

長くなりまして、ごめんなさい。私はこの映画が大好きなので、つい…気が向かれましたら当方の『ピアノ・レッスン』のログも読んでみてくださいませ。では、また!今後ともどうぞ宜しく!

投稿: 岡枝佳葉 | 2005/05/06 02:55

岡枝佳葉さん、こんにちは。

コメントありがとうございました。岡枝さんのブログも読ませていただきました。大好きだという気持ちよく伝わりました。

そういう面はよくわかるし、映画自体の価値もよくわかるのですが、「子どもの人格」への私の思い入れがさせるのか、今ひとつついていけないんです。

実は、ピアノにも思い入れがあるので、海に置き去りにされるのも、鍵盤を1つ取ってしまうのも、だいたい、潮風の中を運んで来られるのも痛み伴ってしまって、正視できません。とはいえ、ピアノについてはそれこそが主題なので、子どもの扱いへの配慮のなさとは正反対ですから、良いのですが…。

投稿: ちんとん | 2005/05/09 09:19

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» 理由なき存在;
『ピアノ・レッスン』とエイダへの私的な憧憬
[Art Grey]
映画『ピアノ・レッスン』の存在について…少々小インテリなログでしてよ♪ [続きを読む]

受信: 2005/05/06 02:58

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